両面宿儺の伝説 仁徳天皇の御代、飛騨の国・蜂賀の岩窟より出生した異人、両面宿儺は当地の豪族として権勢を誇り、この異人天皇の叡聞に達し都に上がり給う。天皇に御対面あいて下向の途路美濃加茂野ヶ原に御休息し給う。その時鳩二羽奇瑞のさえずりをなして高沢の峰に飛び去った。異人不思議に思い里人に尋ねると、高沢山の頂に池あり、龍神が栖み近郷の民に危害を及ぼすと聞き、はるかの峰に登り龍神を退散させ、この峰に寺を創建したという。 両面宿儺とは顔が二つに腕が四つという異人である。『日本書紀』巻第十一・仁徳天皇六五年の条に、飛騨国に人あり、宿難という。その人なりは、一つ骸にして両の面あり。面各そむけり、頂き合うて項なし。各、手足あり。その膝ありて左右に剣をいて、四の手並て弓矢を用う。是をもって皇命に随はず、人民を掠略して楽となす。是に於いて難波根子武振熊を遣わして之を誅しむ。 住職 室賀経秀
【電車・バスの場合】名鉄岐阜駅前より岐阜バス・川合金山線に乗車し、関経由にて「殿村」下車、徒歩約30分。 【車の場合】関市より県道58号を東進、旧武儀町に入り約300メートルほどで左折、高沢観音口より約3キロで山頂駐車場へ。大型車10台、普通車30台可。
仁徳天皇の昔、飛騨の両面宿儺の開基と伝えられ、更に行基菩薩が伽藍を整えたと伝えられている。鎌倉時代尼将軍政子の時、降雨祈願の霊験あらたかにより伽藍再興され、地方の大寺として盛んであったが、室町末期の戦乱にあって焼失、佐藤氏よりの復興をへて江戸時代には尾張藩の保護を受け本堂は寛文11年に再建された。現在の建物はおおむねこの時のもので古建築は多宝塔のみである。
国重文多宝塔 鎌倉尼将軍(北条政子)の御代、天下大いに旱して五穀稔らず時に尼公或夜の夢想に何処ともなく龍神飛来『日龍峰寺に池あり、法華経を写し供養して彼の池に入れば多雨たちまち降りなん』と云って池に飛入するを見て夢さめり。尼公は道運と云える沙門に命じ法華経十部を写し供養して池に入れ祈り給ふ。 この多宝塔は将軍家建立になる唯一の建造物で明治三十四年国特別保護建造物指定、昭和二十五年重要文化財指定となり鎌倉時代を代表する全国屈指の建造物であり約七百年を経過した文化的遺構である。 内部は四天柱のうち後2本と来迎壁があり、その前が須弥壇となり本尊は吉野時代の胎蔵界大日如来坐像を安置する。
1月17日