龍福寺の観音堂内右側に三十三体の観音像があり、次のような縁起が伝えられています。
戦国時代に、遠く陸奥の国から同行十数人で西国巡礼をしていた一行があり、その中にひときわ目立つ娘がいました。陸奥の土豪恩田八郎の娘です。たまたま、鷹狩りの帰りにこれを目にした土岐の家臣、佐藤石見守が一目ぼれし、側女として数年後、男子を出産、後の恩田右馬之亟吉久です。
彼女は、我が子が三歳になった時、素性書と脇差を与え元服した暁には必ず恩田性を名乗るように言い含めた。たまたま平村の田中氏から養子の話があり、田中家に迎えられたが、母の願いを貫き恩田性を名乗った。
成人した吉久は母の因縁に思いを駆せて、西国三十三観音霊場の旅に出て、巡拝の都度、観音像を仏師に彫らせて、三十三体の観音像を龍福寺観音堂に安置したと伝えられている。 |