聖観世音菩薩


 龍福寺の観音堂内右側に三十三体の観音像があり、次のような縁起が伝えられています。
 戦国時代に、遠く陸奥の国から同行十数人で西国巡礼をしていた一行があり、その中にひときわ目立つ娘がいました。陸奥の土豪恩田八郎の娘です。たまたま、鷹狩りの帰りにこれを目にした土岐の家臣、佐藤石見守が一目ぼれし、側女として数年後、男子を出産、後の恩田右馬之亟吉久です。
 彼女は、我が子が三歳になった時、素性書と脇差を与え元服した暁には必ず恩田性を名乗るように言い含めた。たまたま平村の田中氏から養子の話があり、田中家に迎えられたが、母の願いを貫き恩田性を名乗った。
 成人した吉久は母の因縁に思いを駆せて、西国三十三観音霊場の旅に出て、巡拝の都度、観音像を仏師に彫らせて、三十三体の観音像を龍福寺観音堂に安置したと伝えられている。


交通アクセス・周辺地図

【電車・バスの場合】JR岐阜(バスターミナル)12番または名鉄岐阜駅C番のりばから岐阜バス・高美線・武芸川温泉経由・美濃市駅行きにて「武芸川中学校前」下車徒歩8分。
【車の場合】東海北陸自動車道・美濃ICより15分、東海環状自動車道・関広見ICより7分。駐車場あり。大型車3台、普通車30台可。

周辺地図

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寺 宝 ・ 見 所

 龍福寺の霊苑に碑高九十センチほどの自然石に「麟祥院殿仁淵了義尼大姉淑霊」と刻まれた碑があります。この碑は、かの有名な春日局の戒名です。
 龍福寺を建立した恩田右馬之亟吉久の子孫に当たる孫右衛門は名古屋の同心湯本家へ婿入りし、その子(長女於熊)が高須藩主松平但馬守友著の側室になり、男子を出産した。その頃、尾張藩では嗣子がなく、分家に当たる高須藩からこの男子を養子として迎えた。この男子が後の八代藩主徳川宗勝です。
 このように龍福寺と春日局とは、奉仕、檀家、血縁等々複雑な関係でつながっていたと考えられます。
 徳川宗勝の生母於熊の戒名は「円珠院殿薫蓮社心誉光月清皎大禅定尼」と号し、いかにも御三家筆頭六十二万石の殿様の生母らしい戒名である。
 第七番龍福寺の観音参拝の折に、春日局の碑へも立ち寄ってはいかがでしょうか。


年中行事
毎月17日  観音講
1月1日〜3日 祈祷大般若会
1月2日 年頭会
2月15日 涅槃会
4月23日 開山忌
5月8日 降誕会
8月15日 施餓鬼会


 
 
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