当寺は弘仁七年に空海上人(弘法大師)が三田洞山中に創建され、当寺にて法華経を講座されました霊場であります。当時嵯峨天皇の勅願所として法華寺の名を給わり、又この霊場を取りめぐらす山々の姿が印度天竺の山様に似ているところから「霊鷲山」の山号を給わったのであります。創建当時は現在地よりさらに約二キロ奥の谷間にありまして、弘法大師を開基とし聖観世音菩薩を本尊として、七堂伽藍が造営されていたのでありますが、寛永年中(1620年)火災、天災によって堂宇の殆んどは山津波によって押し流され、無残にも廃墟と化したのでありますが、祖師堂及び一宇の坊舎が残ったのを、寛永年中(1623年)郡代石原清左衛門が堂宇を修築し高野山の僧、空全和尚を招き中興とし、爾来弘法大師をも本尊として聖観世音菩薩と両存せられるに至りました。