十一面観世音菩薩

<ご詠歌>ねがいなる ふかきちかひに ひかれきて ほとけのえんに おおぼらのてら

  願成寺の境内には、「中将姫誓願桜」の名で知られる桜がございます。これは、ヤマザクラの一種ですが、花弁の数がヤマザクラよりも多い20〜30弁あり、珍種であることが確認され、プルヌル・フロリドラ・ミヨシという学名で世界に発表され、昭和4年に文部省から天然記念物の指定を受けました。また、この桜のいわれとなった中将姫は、奈良時代の大変高貴なお姫様で、若くして出家し、極楽浄土に旅立たれたという伝説があり、関西にはこの中将姫にまつわる寺院が数多く存在します。この桜は、その中将姫がお手植えになったと伝えられており、花見だけでなく、安産祈願等、特に女性の方を中心に、多くの信仰を集めています。

交通アクセス・周辺地図

【電車・バスの場合】名鉄岐阜駅前の岐阜バスターミナルより大洞緑団地行きバスにて40分、「光輪公園口」下車、徒歩700メートル。
【車の場合】東海北陸自動車道・関ICより10分。駐車場あり。

周辺地図

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寺 史

 弘文元年(672)に起こった壬申の乱で功績をあげた美濃の豪族、村国男依が、天武天皇より賜わった、高句麗伝来の観音小像と仏舎利を芥見の里に堂宇を建てて安置し、山間堂と呼んだ。養老5年(721)、越前の国から泰澄という高僧が訪れ、山間堂を現在の願成寺のある場所に移して寺を建て、大洞山清水寺と称した。聖武天皇の御代になって、大仏の鋳造が計画されたとき、鋳造の技術を持った仏師を探し出すよう命ぜられた役人が、大洞山清水寺(願成寺)を訪れて参篭し、観世音菩薩に祈りを捧げたところ、夢に観世音菩薩が現れて、日野金丸という仏師を探し出すことが出来た。やがて大仏が完成し、天皇は大変感謝なさって、大洞山清水寺に、改めて「如意山願成寺」という勅号を下さり、1メートルほどの十一面観音像を造って、今まで祀っていた観音小像と仏舎利をその胎内に収め、これを本尊として七堂伽藍を造営した。弘仁5年(814)、弘法大師が関東の方へ行かれる途中に願成寺に立ち寄られた。しばらくご滞在の間に、金剛界大日如来の像と、ご自身の像を作って、寺に納められた。その後、何度かの盛衰を繰り返し、室町時代になると、幸いに土岐美濃守の祈願所となり、土岐政房が、舎弟長山左京の子、長山太郎の家臣である桜井一角に寺の復興を命じ、やがて昔日の繁栄を取り戻した。永禄10年(1567)織田信長が稲葉山城を攻めた時、戦に負けた斉藤竜興の兵隊の一部が願成寺に逃げ込んだため、それを取り囲んだ信長の軍隊に焼かれて、寺は本堂一つを残して七堂伽藍も下寺の12坊も全部が灰になってしまった。信長の焼き討ち後、しばらく住む僧も無く、寺は荒れるに任せていたが、承応年中(1653年頃)下有知(第24番霊場)の神光寺という寺の僧で、宥遍上人という人が来て寺を再興した。この宥遍上人が願成寺の中興の祖で、現願成寺の初代の住職とされている。元禄2年(1689)、第2世の時、願成寺は新義真言宗智山派の寺となった。


寺 宝 ・ 見 所
◇国指定天然記念物
 中将姫誓願桜

◇県指定重要文化財
  十一面観世音菩薩立像(鎌倉初期) 
  大日如来立像(鎌倉時代) 
  阿弥陀如来座像(鎌倉初期)
 仁王尊(鎌倉時代) 華瓶と閼伽桶(鎌倉時代) 鰐口(鎌倉時代) 春日版大般若経(鎌倉時代)
 叡尊筆念誦次第(鎌倉時代) 
  絹本着色刀八毘沙門天画像(室町時代)

◇市指定重要文化財
  不動明王立像(室町時代)


年中行事
1月18日 初観音
3月29日 大般若転読会
8月2日 施餓鬼
毎月11日 延命十句観音経を読む会
毎月19日 法話の会


 
 
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