当寺は大日山美江寺と号し、第四十四代の元正天皇の勅願によって開創せられ、開基は勤操和尚である。本尊は脱乾漆十一面観世音菩薩にて、もと伊賀国名張郡伊賀寺に安置されていたのを、美濃本巣郡美江寺の里に移したものである。
この地は木曽、長良、揖斐の三大川が、あたり一帯網の目のように流れ、住民が年々洪水に悩み苦しんだのを哀れまれて、救済のため、霊験あらたかなこの伊賀寺の本尊をお迎え移したと伝えられる。伊賀寺には、寺主の切願により後頂の三仏を残し、名前も座光寺と改められた。
霊亀二年(716)、元正天皇は観音の霊験を聞召され、行幸の御事あり、年号も養老と改められたが、越えて養老三年(719)六月十八日、長屋王に勅して、美江寺の里に伽藍建立を発願され、同七年七堂伽藍が出来上がったのである。
同年八月一日、元正天皇再び行幸、中国より来朝し、大和高市郡久米寺におられた善無畏三蔵を導師として盛大な落慶供養が行われ、寺号も美江寺と名づけられた。これまでの三川の氾濫もおさまり、荒れ果てた川床もみごとな清流と化したので、美しい長江の意味から美江寺の名が出たのである。
其の後、文治二年(1186)、歌聖藤原定家卿が、左衛門尉則重に命じ、寺院を再興し、船木荘六郷を寄進されたのをはじめ、元徳二年美濃の名族土岐頼貞が、斉田、落合の二郷を寄せ、永正三年(1506)土岐美濃守成頼家臣十六条主和田佐渡守に命じて堂坊二十四院を修理せしめた。
天文十年(1541)、斎藤山城守道三が、岐阜城を築くに当り、近郷近在の信仰高き名刹美江寺を現在の地に移し、城下の繁栄を守護せしめられた。
織田信長上洛の際、祈願分を奉納し、天文十年織田信孝、月成夫銭三千貫文を寄進し、慶長十五年、徳川家康寺領十石を寄せ、天文六年に前宝鏡寺宮より大日山美江寺の扁額を賜うた。大正三年本尊仏は国宝に指定され、現今重要文化財としてまつる。